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くれのたび!そのに

■2日目(6/18)

この日は朝7時起きで約束したのに、4時半に目が覚めもう一回寝ても5時半に目が覚めたので、仕方なくベッドの中で携帯弄ってました。遠足前の子供だよね……それに普段6時起きだしね……。
7時になって、Kさんがちゃんと起きられるか眺めてたんですけど、むくっと起き上がって「金剛担じゃない」って言うのが大変おかしかったです。1日目白ワンピ被った、って書きましたけど、2日目はふたりともブルーのワンピでな……双子コーデか!(打ち合わせしてません)実際は、青系統というだけで、全然違うワンピですけどね!
そんなわけで用意をしてホテルのレストランで朝食を摂って、午前中の目的地・江田島へ向けて出発。


江田島行きのフェリー乗り場から、潜水艦が浮上しているのが見えました。ちまっとした棒のように見えたのはあれ、人だよね……。フェリーに乗り込んでいる間に姿が見えなくなって、もう潜航しちゃった?この下にいるの!?って思ったら北の方に移動してたー。潜水艦が白波を立てながら動いている、って初めて見た。
問題の天候なんですが、ホテルを出た時は薄日が差していたのに、江田島に渡る頃からぽつぽつ雨が降り出してきて、折り畳み傘を置いてきちゃってたので、若干焦る。結局、そこまでひどくならなかったのが救いでした!助かった!

江田島の目的は海上自衛隊第1術科学校、旧海軍兵学校見学です。入口近くの目立つところに、護衛艦「ひえい」の主錨がありました!コルベット、戦艦の名前を受け継ぐ三代目のひえい(比叡)も、もう既に退役済です。就役期間は36年3ヶ月ということで、歴代の海自艦艇で最長なのだとか。戦艦時代は二番艦「比叡」→三番艦「榛名」の順でしたが、DDHでははるな型、で一番艦「はるな」→二番艦「ひえい」、ですね(伊勢型もひゅうが型になっているのに、こんごう型は相変わらずこんごうが一番艦なのはなんでだぜ……)。まだ見れますよ、というお話を聞いていたんだけど、解体待ち?解体中?の子を見るのは忍びない。一目会いたいとは思うけれど……。

一度ひえいをこの目で見たかったな

見学は10:30から始まるのでそれまで売店をうろついたり。旧呉鎮庁舎や司令長官官舎が全然人いなかったし、平日なのでもしかして見学者少ないかな?って思ったけどそんなことはなかった。あとやっぱり年齢層高かった!
この日は行事があるとかで、普段最初に回るらしい大講堂は後回しにして、幹部候補生学校庁舎(海軍兵学校生徒館)見て、教育参考館見学して、その後に大講堂、という順番になりました。行事のおかげで、第二種の海自さん達が行進しているのを見れたよ!白手袋片手に持っているのが大変おいしい。腰に引っかけてるのもいい。Kさんと一緒に、ポケットは胸じゃない方がいいね、って言いながら眺めてました。あと、一緒に回ってたおばさまに、「茶髪じゃないし、きりっとしてていいわね」というようなことを喋りかけられたんですが、あのぅ、わたし茶髪(若干)ですみません……。

赤レンガはいくつ使われたんだろうか

生徒館は通称「赤レンガ」の名のとおりレンガ造りの建物で。引率の海自OBの方の説明によると、あのレンガ一個の価格は当時の職工さんの一日のお給料よりも高かったのだとか!それをすごい数使っているの!レンガ触らせてもらいましたが、表面がほんとつるつるすべすべで、そんな昔のものとは思えなかったです。明治時代の建物ですよ!あの有名な、長い廊下の写真も撮りました。ここ歩いてみたいなあ。中には入らせてもらえませんでした。当時、海兵に入るのは東大京大レベルのすごいエリートだったんだよ、という説明がありました。あと、海兵が東京・築地から移転してきた時にはまだ生徒館ができていなかったので、その間は繋留した船を利用していたのだとか。

この廊下を歩いてみたい

教育参考館へ行く途中、芝生の向こうに陸奥の砲塔が見えたので望遠で写真をぱちぱち。かつて四番砲塔として搭載されていたものです。土日祝日の団体見学で、希望すれば見学させてもらえるのだけど、20人以上か……。

大改装で外された陸奥の第四砲塔

教育参考館は、幕末から太平洋戦争までの海軍関係の色々な資料と、戦争で亡くなった方々の遺品、遺書等が収められています。厳粛な場所なので、内部の写真撮影は禁止、脱帽での入館となります。40分間ほど、自由行動で館内を見て回れます。
特に印象的なのがやっぱり特攻関係の資料で、自分より若い、十代の人達の遺書を見るのはつらい……。遺言なし、って書かれているものもありました。この時代の若い人達はどういう精神性だったのかなあ、って思います。少なくとも、今の自分よりはずっと大人だ。壁に、特攻をされた方のお名前の一覧があって、一番最初に関行男大尉の名前が……。「最愛のKAのために行くんだ」っていうのがもう。
そこでハンカチ片手にうるうるしながら真面目に沈んでいたら、先に進んでいたKさんが突然呼びに来て、「榛名がいるよ!」とのことだったので思わずキャン!と。うっかりがっきー日記をスルーするところだったぜ……「『戦藻録』見なくていいの?」って言われて我に返った。ということで宇垣纏の『戦藻録』がありました。『戦藻録』新装版持ってて、旧字体文語体難しいなあって思いながらちょくちょく読み進めているけど、この手書きの日記を活字にしてくれただけでもありがたいと思わねばならぬ……。
で、次のお部屋に、軍艦「日進」の将官室を再現したコーナーがあるんですが、その中に何故か榛名の艦長室にあったという長机が置かれているんですね。榛名の一部が残っているとは全く思っていなかったので、わたしテンション急回復。そのすぐ傍にある、最初榛名のもの、って言われてた探照灯の反射板(だったかな)は実際は大和のものだったみたいで。150cmだもんな……。
あと、飛龍が沈む際に山口多聞が部下に託した戦闘帽も展示されていました。他に、五十六の使ってた地球儀だとか、すごいでっかい五十六の胸像だとか、柱島沖から引き揚げられた陸奥の艦首の御紋章が記憶に残っています。兵学校の卒業写真なんかも。

また、教育参考館の外には、大和や三景艦の主砲弾、甲標的なども展示されていました。

外観

ここから見える古鷹山には、海自の生徒さん達も登らされるそうで、18分で駆け上がれるようになるらしいです!あれだ、BoBのカラヒー!みたいなやつだきっと……。因みに、術科学校のHPには「約50分で頂上に立つことができます」って書いてあった。それを18分か!

最後に大講堂へ。外壁は瀬戸内海産の花崗岩でできているとのことで、白くてきれいな建物です。改修して花崗岩を磨き直したのだとか。内部も、アーチ状の天井にシャンデリア、両側の窓から差し込む光、音響効果もばっちり。天皇陛下がご臨席される時用に、演壇の中央上段に玉座も設けられています(ただ、卒業式とか、海兵は遠いから基本は名代の宮様だったような)。夏場でも涼しそうだけど冬は寒そう。

なだらかな天井のアーチが素敵  戦後、連合軍に接収された後は教会として使われていたそうです

見学はこれで終わりです。解散になったので、ショップでお土産を買って(身分証入れを今パスケース代わりに使っているよ!)、第1術科学校を後にしました。でも小用港までのバスが12時台一本もなくってタクシー呼んだ……。運転手さんが色々お話してくれて、お好み焼き食べた?って聞かれました。大阪のお好み焼きと、広島のお好み焼き(大阪で言う広島焼)は随分違うよなあ。あと、穴子おいしいよ、今は季節じゃないけど牡蠣がおいしいからまたおいで、って言われました。


江田島から呉の方に戻って、お昼を食べにホテルに戻ったら、月曜なのにまた予約でいっぱいとか……迂闊でした。前日中に予約しておくべきだったね。「戦艦大和のオムライス」が食べたい!ってなってたので、オムライスを出してるお店をパンフで探し、取り敢えずホテルから駅前行きのシャトルバスに乗る。この辺記憶が若干曖昧なんだけど、駅の近くまで来たし荷物置いて行こうよ、というわたしと、遠回りして駅に寄るくらいなら荷物持ったままで行きたい、というKさん、という構図になってた……気がする……結局荷物持ったまま歩いたけど!ほんとめちゃくちゃ歩いたよ!?(当社比)わたしひきこもり文化系なんで……体力なくてごめん……。
オムライスはデミグラスソースの方をいただきました。上に乗せるグリンピースは奇数個!

サイズが大きい!

ご飯を食べ終わって流石に「タクシーに乗らせてください」とお願いして大通りに出たら、ちょうど酒屋さんがあって、Kさんお買い上げ。しかしこれはまだ序章に過ぎなかった。


お次は呉市海事歴史科学館、大和ミュージアムへ。
大和ミュージアムは大和の独壇場かと思いきや、何とも金剛充スポットでした!改装前の初期のボイラがあるのは知ってたけどー!(これがわたしの大和ミュージアム最大の目当て)それ以上だったー!大きめの金剛もいたし!ボイラの横の1/100と、あと艦内新聞が置いてあった横の模型コーナーにも1/200!三十六糎砲弾(九一式徹甲弾)の模型もあったし!でも、パネルが邪魔でうまく写真が撮れねえ……。

第一次改装で取り外された金剛の心臓部分  平成5年まで暖房用ボイラとして現役だったというから驚き

金剛って起工も進水も明治時代の艦ですよ!?  パネルが36センチ砲弾の真ん前に……

榛名に関しては、昭和20年7月28日の小用沖で攻撃を受けてる写真のパネルもあったし、サルベージ関連の書類もあった。今回、榛名関係で目当てにしてたのは艦内新聞だったんだ。しかし日刊ってすごいね?伊勢日向、赤城とか他の子のもあったよ。

榛名の浮揚解体に関する見積書  かわいかったりヘタウマだったりのイラスト付きなのが面白い

あと、霧島は、金剛のボイラ前のパネルに建造中の写真がちょこっと載ってた。比叡だけ見当たらなかったな。まあ比叡と呉ってあんまり関係ないもんな……それを言ったら多分金剛もあんまり関係ないけど……。

でも、あれだけ見てたらやっぱり大和かっこいいなってなりますね。うん、やっぱり大きくて綺麗な艦だったんだろうなあ。皆が大和だいすきなのもわかるなあ。当時の技術の粋を凝らしたインダストリアルだもの!海中の映像流してたけど、流石にちょっと涙出た。

このスケールは圧巻!  上の階から見下ろすこともできます

このように大きく艦体が二つに分かれて沈んでいるとのこと  艦隊旗艦用だし、内装も凝ってたんだろうなあ

『開運!なんでも鑑定団』に鑑定に出されて、石坂浩二が購入し大和ミュージアムに寄贈したという長門の軍艦旗もありました。「今の若い人は石坂浩二知らないね?」っていう風に声をかけられたけど、一瞬ピンと来てなかっただけで知ってます大丈夫。長門に星条旗が掲げられていて、米兵が軍艦旗を広げている写真、すごい切ない。軍艦旗はそのまま米国に持ち帰られてたんだけど、手術代捻出のために出品されたとのこと。広げたら、壁の上から下までの大きさになるそうだけど、それだけのサイズの額がないから畳んで展示されているんだ。劣化しちゃうものね……。

「日本の誇り」長門に掲げられた星条旗とか、もう……

日向の航海灯、軍艦旗と伊勢の毒ガス用救急箱なんかも。救急箱ちょっと気になってた!

左舷用が赤、右舷用が青だよ  伊勢の救急箱

他には、スルーされがちな扶桑の模型がちゃんとあったことに感動を覚えました。赤城と長門(共に呉工廠/横鎮)はかろうじて色んなところにいる(プラモとか置いてある)のに、扶桑さんんんん!模型で見ると、あまりあの特徴的な前檣楼がジェンガしてませんでした。もっと、こう……くの字だろ!
模型コーナーには飛龍と翔鶴も並んでたりして、飛龍じゃなくて蒼龍(呉工廠)の方がよかったんじゃない……?翔鶴の「シ」の識別記号は基本的に甲板の最前中央部にあると思ってたんだけど、模型では左舷寄りになってて(瑞鶴の「ス」の位置)、帰りに翔鶴の振りをする瑞鶴、っていう話で盛り上がったり。描かれた場所が変わってたこともあるのかなー。神戸のカワサキワールドでは「ス」って書いてあるのに「翔鶴」っていうプレート付いてたしな……。

扶桑さん!  赤城は模型コーナーじゃなくって展示室の長門の隣にいました。長門の隣に……

翔鶴。奥の方にちらっと写っているのが飛龍

また、ミュージアム前には引き上げられた陸奥の一部が展示されています。主錨や主砲身、艦首フェアリーダー、スクリュープロペラ、主舵など。全体像が想像できないくらい大きいです。

戦艦陸奥の主砲身。いつか陸奥記念館にも行きたい

大和ミュージアムで図録やお土産を買い込んで、あとエフトイズの艦船キットコレクション第二弾を置いてたので霧島のスペアと利根も買っちゃって、まだ帰りの電車まで少し時間があるね、ってことで駅前のそごうでお茶。1日目に見て気になってたイートインできるケーキ屋さんでタルトをいただく!鋼鉄分の多い旅だけど、前回(横須賀)に引き続き最後だけは女子っぽく締めくくっているよね。
なお、その隣がお酒売り場だったんですが、Kさんがふらふらっと吸い込まれていったかと思うと「双鶴」っていうお酒を買い求めて戻ってきました……それも結構大きいやつ……。すごいね。


これで、2日間の呉の旅はおしまいです。広島まで戻って、新幹線に乗って、お話していたらあっという間に新大阪に着いちゃって、そこでKさんとお別れ。とても楽しかったです。呉、また行きたい!

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